2008年01月19日

(笑)

必要とする予備知識の少ないテキストは優れたテキストであろうか.

ある言葉,概念が難しいのは,多くの場合それが複合的なものだからだ.A,Bという2つの概念があったとして, これらの共通部分が和集合より大きくなることはない.だから複合的な概念は必然的に適用範囲が狭くなり,それを使う機会も少なくなる. 使う機会の少ない概念は,難しいと感じてしまう.ただ,大抵の場合単に慣れてしまうことで問題は解決する. 複雑な概念を簡単な部品に分解せずに認識できるようになるために必要なのは,「慣れ」だ.

一旦それに慣れてしまえばわざわざ概念を部分へ分解することは全く無駄な作業となる.

今,一つ前の記事で私は「プリアンブル」という単語を使ったが, 数ヶ月前に初めてそれを見たときその意味をすぐに理解することはできなかった(preamble=序言という意味を知っていれば見当くらいついたかもしれない). プリアンブルを簡単に説明してしまえば,単に\begin{document}の前の部分というだけのことである.ならばなぜわざわざ 「プリアンブル」と呼ぶのかといえば,その意味が複合的なので「プリアンブル」という言葉に置き換えてしまったほうが都合がいいからだ. 実際,単に\begin{document}の前という説明のほか「文章が始まる前の部分」「文章の体裁を指定する部分」 「パッケージを読み込む部分」などなど「プリアンブルとはかくかくしかじかである」という説明は何通りもできる.つまり,「プリアンブル」 という単語を用いない場合,目的に応じて記述の仕方を変えなければならないということである.それでは都合が悪い. 意味が正確に伝わらない可能性も大きくなる.そこで,これらの意味を全て包含した「もの」として「プリアンブル」という単語を用いる. そうすれば,少なくともこの単語に慣れたひとにとって誤解の恐れはなくなる.

対象を「…はかくかくしかじかである」という形へ分解することは,同じように「…はかくかくしかじかである」 という分解ができる程度にその対象に慣れたひとにとっては単に読む労力と誤読の可能性を増やすだけである.

それでは,私は私のテキストを読むひとの予備知識を知ることができるかといえば,できない.できないが,予想はできる.特に, 読む人間の種類が限られているような場合,それはぼんやりと形を帯びてくる.境界は分からないが, だからといって領域が分からないということにはならない.視界の限界を見ることができなくても,視野の広さを知ることはできる.しかし, ぼんやりとでもそれを知るためにはその中に自分がいなければいけない.そしてその領域に「慣れて」いなければいけない.

つまり,勉強するだけではだめで,誰かに伝えなければいけない.伝わったのか,伝わらなかったのかを確認しなければいけない.

日常語となると事態はさらに深刻になる.

私は「(笑)」と「(笑」と「(藁)」と「(w」と「w」と「wwwww」の間になんとなく意味の違いを感じている.そして, それを了解しながらこれらを使い分ける人間がいることを認識している.一方,そんなことは気にも留めていない人間がいることも認識している. これらの表現の違いは,場合によっては単にニュアンスの違いのみならず,使用者の属す文化的背景すら浮き彫りにする. それでいながらそれらの人々を見分ける術は知らない.「(笑)」を基本とする(と私は認識している)これらの表現のうち, 一体どれを文章の末尾に付けるべきかという問題は,私にとって極めて深刻な問題なのだ.

や,まあ大抵の場合使ってみれば片付く問題なのだけれど.

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2007年10月01日

ノギス

ノギスの使い方を知らない人がいた。少し驚いてしまった。馬鹿にしているのではなく、 普通に驚いた。 相手に、というより、 「ノギスの使い方」が当たり前に共有されている知識、常識だと思い込んでいた自分に。

どう考えてみても、その人は不勉強からノギスの使い方を知らないのではなく、これまでの人生で一度も「ノギスの使い方」 という情報に接触してこなかったのだ。

そんなことあるものか。確か僕は学校で…

と考えてみると、僕は普通科の高校じゃなかったし、ノギスの読み方(正確には、 ノギス式の読み方をする直示天秤の読み方)を習ったのは専門科目だった。

中学の技術家庭科なんかで習う場合もあるのかもしれないが、サボっていた僕には良く分からない。というか、高校で教えるということは、 中学で教えない可能性が少なくともあるということだろう。

そして、僕が習ったのは専門科目でだったのだから、普通科なんかだと全く触れない可能性がある。

それでもなんとなく、ただなんとなくノギスの読み方なんてのは誰でも知っていて、物差しと同じくらい容易に使えてしかるべきものだ、 と思い込んでいた。

しかし、よくよく考えてみるとノギスの目盛りの読み方は結構特殊だ。実物を例示せずに説明しろ、と言われても、 万人に分かるように説明できる自信が無い。

それに僕だって大学に入るまでマイクロメーターの読み方は知らなかった。 それもたまたま読んだ本に載っていたから覚えただけのことであって、そうでなければ今まで知らなかったことだろう。

教育という枠を外れてしまうと、ある知識を知っているか否かは蓋然性の問題となってしまう。 勉強をしたって単に部分集合が大きくなっていくだけで、全ての知識を得ることなんてできない。基本的なことに思えても、 全くの偶然からその知識に接触しないということはありうる。

基本的なことだから常識だとは限らない。常識だから共有されているとは限らない。そしてそれは誰の責任でもない。

っていうか常識って何だ?

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2007年07月22日

忘れた単語はもう一度書く

去年の秋ごろ,情報カードを使って単語を暗記しているみたいなことを書いた。 しかし600枚くらいカードを作ったあたりで飽きてしまい,以来カードは机の隅でほこりをかぶっていた。

最近少しばかり英文を読む機会が増えてきたし,そろそろ真面目に英語を勉強しないといけないので, ぼちぼち単語を覚えていこうかと思い始めた。もう一度カードを引っ張り出そうかと思ったけど,飽きたってことは何か問題があった。 もう一度やってもまた飽きるだろう。

もう一度単語を書き始める前に,なんで飽きたかを考えておかないと。

ここで前のやり方をおさらいしてみると,

  1. 単語を辞書で調べてカードに丸写し
  2. 裏に単語を書いて単語カードに
  3. 数回連続で正答した時点でカード廃棄

というような感じだったと思う。思うに,全体的に作業が長めでだるかった。カードに写す内容は長くなりがちだったし, 覚えられない単語は何回見ても覚えられない。もう少しテンポアップをしないといけない。

近頃,「英語達人塾 極めるための独習法指南」という本を読んだ。それによれば,単語帳 (ちなみに,この本では「普通のノート」を単語帳にすることを推奨している)に書くべき内容は, 辞書に載っている情報のうちの

  1. 見出し語
  2. 発音記号
  3. 品詞
  4. 基本的な意味

だ。辞書に特有の記号,他の語に対する参照記号は必要ない。例文は量にもよるが,必須ではない。 そもそも何か文章の中の単語を調べているはずだから,ということらしい。 分量はノートの罫線に沿って書いて3〜6行が適当だそうだ(p64-65)。

そして,印でもつけながらじっくり確認していく。確認が済んだら,そのページは破り捨てる。

もちろん,確認しただけで完全に覚えられるわけも無く,再度調べる羽目になるだろうが,「そうしたら,まったく同じ単語, まったく同じ語義を改めて単語帳に書き記せばいい(p66)」。「手を動かすことによって体に練りこむ(p66)」ことに意味があるという。

つまるところ書いて覚えろということ。

まあ,当たり前といえば当たり前のこと。でも,前は書いたものが後で使えると思っていた。それがいけなかった。 書いてしまったものはそんなに使えない。 書いて覚えられなかったものを見て覚えようとしてもそう簡単にはいかない。音読でもすれば多少は違うかもしれないが。今後は, 見て覚えるというやりかたはほどほどにしておこう。

英語達人塾 極めるための独習法指南
英語達人塾 極めるための独習法指南

タグ:英語
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2007年06月11日

いつまでもそれでいいと思うな

捨てることをあらかじめ予定しておけ。 どうせいやでも捨てることになるんだから。

フレデリック・ブルックスのこの言葉を引用し,エリック・ レイモンドはかのオープンソース4部作の第一部「伽藍とバザール」の中でこう行っている。「1 回とりあえず解決策を実装してみるまでは、問題を完全には理解しきれない」と。

つまり,最初に知った,学んだ,思いついた「やり方」というのは, 大概がベストな方法ではない。というより,早かれ遅かれベストな方法ではなくなる。なぜなら, 問題というのは解決策を適応することで表出するものであって,我々は常に解決方法を改善し続けなければならないからだ。また, マックス・ウェーバーはこう言った。

われわれ学問に生きるものは, 後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事をすることができない。原則上, この進歩は無限に続くものである。

我々は常に進歩し続けるのであって, そのために過去のものは望むと望まざるとに関わらず捨てられ,置き換えられ続けるのである。どのような分野, 事項においてもこれは変わらないと思われる。

「我々の時代は〜だった」というようなことを, それが良かったのかのように言う人を見るにつけ残念な気持ちになる。 彼らはすでにその点において前進を止めてしまっているのだから。

まぁ,あるいは私も意識せず言っているかもしれないし, いずれそんなことを言うようになるのかもしれない。「変わらない」ということはいつも正しそうで楽そうな風を装っており, 油断すればそれを信じてしまいそうになるものだから。

posted by Rion778 at 00:40 | 岐阜 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2007年03月02日

取り組んでみて初めて危機に気付く

今後の地球環境対策のシナリオとしては、破局的な危機に直面してはじめて解決策が動き出す「ハードランディング」か、 長期の国家的ビジョンを形成して少しずつでも環境容量に近づけていく「ソフトランディング」かのどちらかになるだろう。
石 弘之「地球環境報告U

今までの私のレポート作成を思い起こしてみると,締め切り直近になるまで何もせず, 前々日や前日になってはじめて慌てだして徹夜,あるいはそれに極めて近い状態で仕上げる,というものであったように思えてしまう.だが, これは正しくない.レポートに対する準備はいつも結構前から始めていて,ネタの収集や全体の構成なんかをメモったりしているのである. こうやって徐々に徐々にレポートを進めていって,「ソフトランディング」でレポートを終えられる,と,ギリギリまで思っているのだ.

だが,いざWordに文章を打ち込み始め,Excelでデータの処理を始めると, 必ずといっていいほどとんでもない問題を発見する.で,それまでのネタも構成も大抵ほとんどがパーになり,極めて危機的な状況に陥り,結局 「ハードランディング」で解決するしかなくなる.

この例にのみならず,大抵の場合において事前の計画や予想という奴は破綻するためにあるようなもので, 本当に深刻な問題というのは本番中にぶち当たるものだ.

スタンダールは、「恋の情熱においてもっとも驚くべきは第一歩である」と述べている。アイデア生産も同じで、 もっとも重要なのは、取掛かり段階、とくに、「とにかく仕事を始めること」だ。
野口悠紀雄「 「超」整理法―情報検索と発想の新システム

何においても始めてみなければ分からない問題というものがあるのだから, 仕事に取り掛かる前から下手に楽観的になったり,あるいは悲観的になったりすることに意味はない.計画を入念にして実行するより, 計画は早々に切り上げてとっとと仕事にとりかかり,その後に再度計画を練り直すほうがいいはずだ.

…っと以上の様なことをシャワーを浴びながら考えていた次第でございまして.

タグ:考察
posted by Rion778 at 00:54 | 岐阜 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2007年02月28日

やる気が無くてもアクションを起こす方法

やったほうがいいとは分かっていても,ついついサボりがちになってしまうタスク,掃除や炊事,勉強だとか, をこなすにはどうすればいいのか.要は「やりゃーいい」のだけれど,第一歩を踏み出すということは,時に仕事の内容そのものよりも難しい. あの物理のセンセーも仰られているように,「やればできる」という類の言い訳は,「できない」というのと同じことなのだ.

ところでこうした場合,第一歩を踏み出すのに効果的なのは,タスクを細分化することだ. 料理をするのが極めて嫌いな私が炊事に踏み切るまでの過程を例に示せば,

  1. 食器でいっぱいになっている水切りカゴを観察しに行く.
  2. 食器を片付けてカゴを空っぽにする.
  3. 溜まっている洗い物を観察しに行く.
  4. とりあえずお湯を出してみる.
  5. 洗い物を済ませる.
  6. ついでに米を洗って炊いてみる.
  7. ついでに野菜を切ってみる.
  8. 以下略

まー最近は台所周辺がきれいなら料理に踏み切ることはさほど困難で無いということに気付いたので, 洗い物はためないようにしてるんだけど.

とにかく,ここで重要なのは「チャーハンを作る」だとか「カレーを作る」だとかいった最終目標を初めから目指さないということ. 水切りカゴを観察しに行くときは,あくまで水切りカゴを見ることが目的なのであって, 食器を片付けるかどうかについての採決はする必要がない.理想的には後のステップなど忘れ去ってしまったほうがいい.

つまり,細分化されたタスクはそれぞれが独立したものでなければならない.「これだけやったら終わってもいい」と常に考えておく. もっとも,「米を炊いておいておかずを作らないなんてことがあるのか」という疑問もあるだろうが, そのような瑣末な事にこだわってはいけない.大体,細分化というのは多くは気分の問題である(無論, 大きな仕事であれば本当に細分化して少しずつ進めるわけだが)し,「いつでも終われる」 と思ってはいても実際に途中で終わることなどほとんどない.

このように細分化されたタスクの攻略を行うと思えば,それら一つ一つに取り掛かることはさして難しいことではない. 初めから最終目標を目指して取り掛かるのに比べると,心理的な障壁はないにも等しい.「目標は高く持て」とはよく言われることだが, ルーチンワークにまで高い目標を持つ必要はないのだ.

posted by Rion778 at 11:43 | 岐阜 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2007年02月24日

徹夜の生産性

さしあたって特に理由も無いのだが,昨夜はなんとなく徹夜で勉強してみた.

・分かったこと

  • 午前5:00ごろまではテンションを保てる.勉強も出来る.
  • 夜が明けてくると目がかすんできてテンションダウン.もうやる気しない.
  • 午前6:00ごろ,コーヒーなんか飲んでたら新聞配達の音にビビル.
  • 午前8:00ごろ,結局床で寝る.
  • 午前11:00ごろ,起床.以降体調不良.

・結論:徹夜はするな!

深夜は暇になるので集中できていいんだけど,昼間の生産性が極端に低下するのでわざわざ徹夜する利点は無い.問題は目のかすみだ. 夜更かしが原因の場合は目薬の効果もイマイチ.目が疲れてきたらおとなしく寝るべきなんだろう.

なお,床で寝ると眠りが浅くなるので睡眠時間は短縮できるんだけど,夕方くらいに眠気が襲ってくるので結局同じ. やっぱ明るいうちから机に向かえるようにすべきだ.

タグ:徹夜
posted by Rion778 at 20:14 | 岐阜 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年11月04日

正しい知識

入門書を一冊読み終わったら、 ただちに中級書に進むような乱暴なことをせずに、 別の入門書を手に取るべきである。
立花隆 「知」のソフトウェア

入門書というのは大抵の場合「正しいこと」を書いている.が,「全て」を書いているとは限らない.

たとえば「コップ」というものに対して,「上部が大きく開口している,主として円筒形の容器」 という説明がされたとしよう.この説明は正しい.が,これでは何のための容器かわからない.これに「主に飲み物を飲むときに使用する容器」 という説明が加わると大分イメージしやすくなる.「ガラス,あるいは陶器の場合が多いが,氷で作られたりもする」という説明があれば現実の 「コップ」を見つけやすくなる.「ペンを立てたり,入れ歯を洗浄したりもできる」という説明が加われば,イレギュラーな「コップ」 にも対処できるだろう.

こうして多くの角度からの説明があれば物事は理解しやすくなる.が, 様々な角度からの説明を一度に得るということは現実には難しい.何かを勉強するなら一冊の本を読んで得られるのは一面か二面だと思って, 同じような本を何冊も読んだ方がいいと私は思う.一冊の本や人づてに一度聞いただけのことを盲信している(んだと思うけど)と, 次のようなことが起こる.

先日メスピペットを口で吸ったら「メスピペットなんか口で吸うわけ無いじゃん.ホールピペットじゃないんだから. 」と非難囂々だった.で,悔しいので家にある教科書やら入門書やらを調べてみると,3冊にメスピペットの使い方が記述してあり,3冊とも 「ホールピペットと同じ」と書いてある.あとウィキペディア的にはホールピペットの方がメスピペットの一部らしい (これはどうなんだろ?).まぁ確かにメスピペットを口で吸うべきでない場合はある.試薬が毒物劇物,または揮発性の場合だ. ただもちろんこの場合はホールピペットだろうと安全ピペッター使うか諦めて駒込ピペット使うかすべきなんだけど.あと某掲示板的には 「安全ピペッター無しが許されるのは地方私立大までだよねー。キャハh(ry」らしい.… まあとにかくメスピペット=口で吸わない, ホールピペット=口で吸うって理解はいかがなものかと思った.

こういう事は一度で「わかった」と思ったことや, 理解していないと恥ずかしいような気がする基本的な部分で起こりがちだと思う.「簡単」とか「基本」 とか思ってると見直さない事が多いだろうから.

タグ:知識
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2006年08月29日

記事の分類

ブログにイロイロ書いていると記事の分類に困ることがしばしばある.特にブログにも記事にも具体的なテーマが無い場合は, コウモリやカモノハシの如くどこに分類したらいいのか困る記事がわらわら出てくる.

これはどうしたものかと思っていたのだが,よくよく考えると無理に分類する必要もなさそうな気がしてきた.

分類がしてあって有り難い場合というのは,その分類が簡単な場合に限られる.これは例えばモノのレビュー, 何か特定の分野に関する記事などである.こうした情報を求めてやってくるような人間は, そのような情報がひとまとまりになっていると便利だと感ずると思う.目的意識がはっきりしているからだ.

これが日常のちょっとした思いつきや発見何かを書き留めた記事となると,必ずしも既存の分類に当てはまらないコウモリ記事 (ex.今書いているこの記事)になる可能性がある.こうしたものを無理に分類すれば,グループ内の記事件数が極端に少なくなるか, イマイチ何を扱っているか分からないグループが出来上がるかのどちらかになる.こうしたグループはどうも使いにくそうである. はっきりした目的意識の下にこのような記事を求める人間もほとんどいないだろう.

それじゃあコウモリやカモノハシはどうすれば良いかという話だが,これはとりあえずまとめてどっかに入れておけばいい.日記, あるいはそれに類する適当なカテゴリを作っておき,そのなかに何でもかんでも放り込んでおく. これをある程度の件数になったときに見直してみれば,あらたなカテゴリーが形成できるということを発見できるかも知れない.

要するにその時初めてカテゴリーを作れば良いのであって,カテゴリーありきで記事を書く必要は無いのである. 何事も必要に迫られて導入してこそ真価を発揮できるのだ.

ちなみにもう一つ解決の手がある.タグの導入である.近頃英語圏のブログでは記事の分類にタグを使用しているものが散見される. タグによる分類なら一つの記事を一つのカテゴリーに属させなければならないということは無くなるから, 分類についてあれやこれや悩むことも無くなるハズである. 単にキーワードを付けるだけならばコウモリだろうとカモノハシだろうと容易であるからだ.

そういやseesaaもタグを最近導入したはずだ.一つのブログ内で使えるのだろうか?

…おお,できた.さんざ考えておいてコレか.新機能の追加には注意せねばならんな.

posted by Rion778 at 22:46 | 岐阜 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年08月16日

なぜメモるか

安心して忘れるため,頭を空っぽにして次の情報に備えるため,考えをまとめるためなど,メモをとる理由はその人によって, また状況により異なるだろう.

私にとっての一つの理由は「安心して思い出す」という点にある.

考え事をしているときに何が恐ろしいかと言えば「半端に思い出した」という状況だ.関連した書籍名や人物名が思い出せたならまだいい. 本棚を探すかGoogleでも使って検索すればいいのだから.

しかしそうではない場合がある.セリフやアイデアについて概念のみが想起されてしまい, 何ら重要なキーワードが思い出せないときがあるのだ.ちょうど曲のメロディーだけ思い出してしまい, 曲名も歌手名も分からないという状態に似ている.こうなるともうほとんど探しようが無いのだが,それでも気になるから賢明に探す. 関係のありそうななさそうなキーワードを片っ端から検索エンジンにかけ,最近読んだ本を漁り,何とか思い出せないか必死に考えてみたりする. このときに費やされる労力と時間たるや相当なものである.

つまり,この時の保険としてメモがあるのだ. ともかく気になったことや考えていることなんかはなるべくメモ帳に書き写すクセを付けておき,本を読んでいて重要だと思った部分, 面白いと思った部分は書き抜くよう心がける.こうしておけば後で何か気になってもメモ帳を見れば答えが載っている場合が多いし, そうでなくとも自らの思考の変遷を辿ることが思い出しの手がかりとなる.また,「書く」ということで記憶の定着も良くなるから,そもそも 「半端に思い出した」という状況もかなり減るのである.

タグ:考察 メモ
posted by Rion778 at 23:55 | 岐阜 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年08月13日

噂を噂と見抜ける人でないと(ブログを使うのは)難しい

陶芸家なら失敗作は叩き破って巷間に流れ出ないようにするのが常識,書道でも良心的の人なら, 絶対に他人の目に触れないようにするものだ.そういう点のルーズさが,死後に恥を流すことになる.みずからの書いた文章が, いつどこでどんな人に見られるかを考えれば,いい加減なものは書けなくなる. 手を抜くべからずという教訓をかみしめて身につけるべきである.
板坂元「続 考える技術・書く技術」 P161 「文章は不朽之盛事」

また,同書(1977年初版)で板坂氏は全ての人間が自己の表現方法を得る「一億総タレ化」 は不可能と述べている.しかし,現在のブログブームを考えればまさに「一億総タレ化」時代が到来していると言ってもいいだろう.

ところで,この「一億総タレ化時代」の中で,板坂氏の指摘した「手を抜くべからずという教訓」 は守られているのかというと,どうも微妙な気がする.何というか根拠が無く,ついでに責任も丸投げにしているような文章が目に付くのだ. 数は多くないと思うのだが,口を滑らせたというか筆を滑らせたというか,あるいはタイピングを滑らせたというべきか, ともかく油断したとしか思えない無責任な文章が時々ある.

例えばちょっと前にはいわゆる「福島コピペ」 の信憑性についてが話題となった.ソースが存在していると誰もが思いこんでいて,さらに「いかにもありそう」 だから追求することを怠ってみなが文章化し広まってしまった典型的な例だろう. 他にもダイソーやブックオフなどのいくつかの企業が創価系企業であるという説や,誰それは在日であるという噂など, 「いかにもありそうだから」という理由だけで流布している「実は根拠のない噂」はぼちぼちある. 少し検索すればあくまで噂であるということは確認できるのだが,もはや確定した事実であるかのように書かれることがある. ソースが無いのになぜそこまで信用できるのか.

例えば初めて話題に上る情報であればソースが無ければこれが信用されることはまずない.しかし, すでにある程度出回っている情報だとソースを明示せずとも受け入れられることがままあるのだ (例えばGoogleでのヒット数を信頼度の目安とするような場合があるように). それはもちろんソースの無い情報は出回る前に淘汰されるため,広く出回った情報にはソースが存在すると予想できるからである. しかし上の例のように大したソースなしに(あるいはあったとして誰も引用せずに)噂が一人歩きしてしまうということは現実にある. これはネットに限ったことではなく,例えば誰もが引用していた学術論文が実はまともな実験に沿ったものではなかったなどという話は結構ある (だから研究者は誰かがやった実験でも繰り返し行うのである).

もっとも,根拠が確認できない話を全く扱うなと言うつもりは無い.噂というのは楽しいから広まるのだ.しかし, 井戸端会議で広まった噂ならそれこそ75日もあれば消えるだろうが,ネットはそうはいかない.劣化して無くなる可能性が無いだけでなく, 誰がコピーするかバックアップするか分かったものではない.まさに「不朽之盛事」である. よって噂を扱う限りは噂であることを明示しなければならないし,また井戸端会議よりも責任が重いということも自覚しなければならない. それは自らの手によって不特定多数の人間に「出版」されているのだから.

余談だが,近年のブログの浸透具合は凄まじいと思う.この間NHKでブログを作成する講座が放送されていたときには驚いた. 「コンセントを接続して…」などとそんなレベルから説明せず, もうネットに接続できるという前提で話をしても視聴者に受け入れられているということか. 出演者からするに対象は定年後くらいの年齢層だと思うのだが,これくらいのレベルの内容に需要があるのだろうか.もっとも, 私の祖父はパソコンから無線,カメラやAV機器などとにかく機械やデジモノの好きな板前であったから, 今のお年寄りというのはむしろパソコン大好きな方が多いのかもしれないが.

タグ:ブログ
posted by Rion778 at 01:49 | 岐阜 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年08月09日

紙の裏を使わない

バラバラの紙というのはバラバラであることによる利点があって,それは両面に書くことで損なわれてしまう. だからバラバラの紙は片面のみを使うべきであって,表面の内容を裏面に続けて書くのはあまり賢い方法ではないと思う.ちなみに表題の 「綴じられていない」に対する「綴じられた紙」というのは要するに綴じノートの事で,バインダーに綴じられたルーズリーフの事ではない.

とりあえずバラバラの紙の両面を使った場合と片面を使った場合について,考えられる利点と欠点を挙げてみよう.

まず両面に書いたときだが,この場合メモの内容についてきちんと時間軸を保ったまま, なおかつ手を触れずに一度に閲覧できる限界は2ページだ.作業スペースにもメモのサイズにも関係なく2ページである. 両手を活用したとしても6ページ(手に2枚持って4ページ,置いて2ページ)が限界で, しかも完全に同時に閲覧できるわけではないし手は不自由になる.また, バラバラにして床に広げてみても頻繁に裏返す必要があるのであまり意味がない. ホッチキスかペーパーファスナーで綴じてしまった方が紛失の危険がなくていいくらいだ.このように欠点はいくらでも出てくるのだが, 両面を使うことによる利点は紙の使用量が節約できるという意外に思いつかない. だいたい紙の節約と言っても手書きに使う程度の量だからたかがしれている. 普段から印刷反故をメモに使うような人なら節約の必要はほとんどないので結局利点は何も無いことになってしまう.

対して片面に書いた場合,紙を余分に使うという点が欠点であるが,考えられる欠点はそれだけだ. 両面使った場合と対照的に利点がいくつも挙げられる. まず作業スペースと自らの視力の許す限り何枚でも同時に閲覧することが出来るという利点がある. 一度広げてしてしまえば両手は自由に使えるし,配置を換えることでKJ法の様な効果が得られ理解や発想の助けになるかもしれない.また, スキャンしてパソコンに取り込む際も楽だろう(特に小さな紙).裏が白紙だとしても, 例えばどうしてもそこに追加しなければいけない情報が生じたときのバッファーとして役立つだろうし, 暗記目的ならばノートの内容を想起できる質問などを書き込んでおいてもいいだろう(コーネル大学式ノートで言う左マージンのようなもの).

で,まとめると両面使いは紙の節約以外欠点だらけで,片面使いは紙の浪費以外利点だらけということになる. 紙の消費量という唯一の差についても,所詮は手書きに用いる程度の範囲での話であって,大きな差にはならないはずだ. それも印刷反故などの捨てられる運命にある紙を流用することで欠点では無くなってしまう. 裏面も使いたいというのなら綴じノートに書くべきだ.綴じノートならば一覧性以外の問題は無くなるし, それ自体で書けるという点でバラの紙より機動力が勝っているし,ルーズリーフより薄い,コストが安い(場合が多い)など, なかなか捨てがたい利点も持っている.

タグ:メモ ノート
posted by Rion778 at 00:32 | 岐阜 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年07月27日

金縛りとコーヒーと

 私は一人暮らしをするようになってから時々金縛りに遭うようになった.

「金縛りはリアルな夢である」という一般論には全く賛成なので,心霊だとかそういった意味での恐怖感はない.

ただ,金縛りに遭っている最中は非常に精神が不安定となり,時には何故か自分が生きている事に対する強烈な罪悪感に苛まれ, それこそ自殺したくなるほど気分が滅入るし,またある時には得体の知れない恐怖感に襲われるのであまり気持ちの良いものではない.

これらは覚醒時には全く感じることのない精神状態であって,目が覚めれば気分は爽快,いつもと変わらぬ一日が始まる. ゆえに特に日常生活に支障はないのだが,それでも避けられるならば避けたい.

で,昨晩久しぶりに金縛りに遭って,その時(すなわち金縛ってる最中に)思ったのだが, これは寝る前にカフェインを摂取していると発生しやすいのではないだろうか.

つまり,中途半端に頭が覚醒状態に保たれる(カフェインの効果は9時間〜12時間持続すると言われる)ため, 金縛りの説明で良く言われる「頭は起きているが体が寝ている」状態,つまりREM睡眠での眠りの浅さがより際だったものとなり, より現実的で印象的な夢を見やすい,つまり金縛りに遭いやすい状態になるのではないかということである.

おそらくコレは他の誰かも提唱しているはず,との前提に立ち,すこし検索して見るも結果はイマイチ.ただ, カフェインで眠りを浅くして金縛りに遭ってみようと試みる人は居た.やはり「眠りが浅い」というのが一つのキーなのだろう. 誰かこの件に関して実験した人は居ないのだろうか?

ちなみに今回の金縛りは罪悪感と恐怖感のコンビというタチの悪いものだった.

金縛りに入った直後から「ああ,何で俺は住んでもいない部屋を賃貸しているのだろう!一体今までいくら親の金を無駄にしたのだろう!」 という強烈な罪悪感に苛まされた.が,私は住んでもいない部屋を賃貸などしていない.何を寝ぼけておるか.まあ寝ているワケだが.

で,しばらくすると落ち着いてきて,前述したカフェインと金縛りの関係などいろいろ考えつつ,なんとか体を動かせないか頑張っていた. その時ふと「まあどうせ夢なんだけどさ,でも目の前に生首とか現れたら怖いよな」とか余計なことを考えたのだ.そして目を閉じ, 再び目を開くと…そこには女性の生首がっ!
自分が考え出したものと理解はしているのだがやはりコレにはかなり驚かされて,さすがに目が覚めた(つまり金縛りから抜けた).

やっかいなことに私が金縛りの最中に考えたことは何でも目の前に現れる. その上論理性とか判断力が欠如しているのでロクな事は考えない.白装束の老婆だとか,あるいは叫び声(音も聞こえてくる) だとかもう完全なお化け屋敷状態になる時すらあるのだ.後から思い出す分には面白さすらあるのだが,精神状態が不安定な当人にとっては, お化け屋敷どころではない恐怖である.

で,結論としては午後コーヒーを飲まなければ良いだけだが(持続時間からして, 特に睡眠障害のある人は午後カフェインを摂取しない方が良いというのは良く言われる),なにぶん今はテスト前の追い込み期間であるゆえ, すでに3杯コーヒーを飲んでいる.ああ,寝床につくのが恐ろしい.

まあ,本日分の睡眠は先ほど昼寝で消化したので朝まで寝なければいいだけの話なのだけれど.

posted by Rion778 at 00:00 | 岐阜 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年07月16日

生物統計

 現在イネの生育調査に関するレポートを書いているのだが,統計処理を施しても望むような結果が得られなくて困っている. 原因は何となく分かっている.データのばらつきが大きすぎるのだ.

統計処理にはデータのばらつきというものが非常に重要だ.というのも複数のデータを比較するとき, データ間の差が偶然によるものなのか,偶然ではないものなのかを考えるというのが統計における基本的な手法だからだ.

要するにデータのばらつきが大きいと,平均値に差があったとしても 「それぐらいの差なら偶然に起こったとしてもおかしくないんじゃネーの?」ということになりやすい.反面, データのばらつきが小さいとほんのわずかな差でも「偶然には起こりにくいから何か意味があるかもね?」なんて結果が出てくる.

で,今回は前者の問題が発生しているわけだ.くせ者なのは「偶然に起こったとしてもおかしくない」ということしか分からないという点. つまり,実は何か違いがあるかもしれないのだ.俗に「悪魔の証明」と言われる「無いことの証明」は統計においてもやはり難しいのである. 結局,差があるということが分からなければ何も分からないに等しい.

とりわけナマモノを扱う場合はよくわからない誤差というものが結構出てくるものだから,統計的手法が有効でない場合も多い. 誤差そのものを大きくするような要因(誤差もたぶん検定できる.誤差が正規分布するのであれば.)もあるだろうし, 得体の知れない交互作用なんてのもあるだろう.要するに生物学と統計学は相容れない部分が大きいのである.

じゃあ生物実験において統計は適当で良いのか,といえばそんなワケも無い. 統計的な意味があってこそ生物的な意味の説得性も増すというものである.それにいい加減な統計処理をしていると論文もacceptされない. 例えば昔は通用していたフィッシャーのLSDだとかダンカンの方法だとか言われる多重比較の方法はいまや数学的に間違っていることが分かっていて, ほぼタブーとなっている.ナマモノ屋にとってかならずしも武器にならない(今回のように)統計学だが, きちんと学んで自己防衛しておかないと駄目なワケだ.

むー.投資でもやればもう少し興味も湧いて詳しくなれるか?先立つものが無いけれど.

最後にこの文章に対する自己防衛&イイワケ. 私はつい最近統計学をすこしマジメにかじりはじめたところなので内容についてはイマイチ自信のない部分もあったりなかったり. 大したことを書いているワケでもないのだけれど何か指摘があればどうぞお気軽に.

posted by Rion778 at 02:49 | 岐阜 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年03月12日

トラックバックとは何ぞや?

どうも。ネットでもオフラインでもコミュニケーションの不自由な僕です。

トラックバックって何のためにあるんでしょうか。トラックバックにはいくつかの謎があります。特に気になっているのは次の三つ。

  1. 相手側にリンクを押し付けるような機能がなぜ存在するのか。
  2. そしてトラックバックを受け取った人間が相手に「トラックバックありがとうございました」というのは何故か。
  3. 「トラックバック返し」とは何なのか。
一つ一つ考えて見ましょう。

まずトラックバックの存在意義について。ちょいと検索してみたところトラックバックってのは「リンクしたよー」って事を伝えるためのツールらしいですね。メール連絡より手軽だし、他にも関連記事がありますよって事を示す効果もある。なるほどなかなかよく出来ている。一つ目は解決。

では二つ目、「トラックバックありがとうございました。」という書き込みは何なのだろうか。記事を取り上げてもらったのであれば「記事を取り上げて頂きありがとうございました」と言えばいい。だがまっこと奇妙な事にこの「ありがとうございました」が書き込まれる記事のほとんどは他のブログの記事を取り上げてなどいないケースがほとんどなのだ。これって単なるリンクの押し付けに感謝してるの?みんな馬鹿じゃないの?と思いかけましたが、馬鹿なのは僕でした。これは日本古来より伝わる高度な拒絶の形式だったのです!つまりアレです。「ぶぶ漬けでもいかがどす?」というアレみたいなちょいと分かりにくい婉曲表現。なるほど、ブログというデジタルな媒体を介したコミュニケーションにおいても日本人としての「心」、相手を傷つけまいとする思いやりは忘れられていないワケデスネ!二つ目も解決です。

とすると三つ目の疑問の「トラックバック返し」というやつはもう少しグローバルな仕返しの方法ですね。「目には目を、歯には歯を」というアレですか。WWWという世界へ向けて情報が発信される仕組みを利用している以上、こうした世界基準の仕返しもアリなのかもしれません。これで三つ目も解決です。

めでたくトラックバックに関する疑問は全て解決となりました。で、僕もこっちの記事に言及の無い無作法なトラックバックスパムに対し、上記の様な高度でエレガントな対応をしようかと一瞬思ったのですが、小心者の僕にそこまでの度胸はありません。幸いにもここのブログには認証機能がついておりますので、一つ一つ記事を見極めて認証するかしないかを見極める程度の対応に留めておこうかと思います。

もう来ちゃってるトラックバックはどうしよう。消して良い?ダメ?沈黙は了承と解釈して( ´ノД`)コッソリ消してくかな。

posted by Rion778 at 21:56 | 岐阜 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年03月08日

ペン回しと「学習」

ペン回し。その技術の習得過程はまさしく「学習」のモデルだ。

続きは読まなくても良いのですよ?
タグ:ペン回し
posted by Rion778 at 02:56 | 岐阜 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年03月07日

ブログに何を書こうか

このサイトのURIの先頭にはhttpという文字列が付いている。HTTPとはHyperText Transfer Protocolの略。このサイトにはHyperTextがあり、それがこのProtocolに従い転送されていたのだー。

Ω ΩΩ< な、なんだってー!!

で、HyperTextって何ぞ?

続きを読む?
タグ:ブログ
posted by Rion778 at 15:06 | 岐阜 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2006年01月08日

タバコは悪くない!っていうひと

まず子供、要するに未成年の喫煙者、分かりやすく言えば馬鹿者に多い主張が 「俺ら税金はらってんだからよー。むしろ感謝してほしいもんだねー。あーん?」 というやつ。 ネット上なんかだと割とよく見る。 これはもちろん全然正しくない。 喫煙による税収なんかより、喫煙による社会負担のがでかいってことはいままで散々論証されてる。

で、意外と深刻なのが次のような主張をする人。 「タバコの害なんてのは行き過ぎたプロパガンダに過ぎなくて、実際害があるかどうかなんて証明できてない。」 こういうのはネタだと思ってたんだけど、大学でこの主張をマジでしてるやつを見た。大学生なんてやめちまえバカー! と、思わずにはいられない。いや、そいつの主張は 「ガン細胞なんて体中にあるんだから、タバコが原因で細胞の一個や二個がガン化しようが関係ない。」 だっけかな。まーアホに違いないからいいや。 タバコに害があるかどうかについての研究なんて世界中でされてるし、当然ガン発生や死亡率との強い相関関係がデータとして現れている。大体、タバコに実は大して害が無いなんて研究結果が出てたらタバコ業界がすぐ食いついてバンバン公表するにきまってるじゃん。

さて、ここで少し話題を変えて、昨年の10月ごろだっけか?日本循環器学会をはじめ9つの学会が
たばこを吸うのは「ニコチン依存症と関連疾患からなる喫煙病」であり、患者(喫煙者)には「積極的禁煙治療を必要とする」
と言い出したのは記憶に新しいと思う。 よーするにそもそもタバコ吸ってるのが病気だと。 そりゃそうだよね。一日何本も吸ってないと落ち着かなくて、やめようと思ってもやめられないのなんて完全に中毒だもの。例えばこれがアルコールだったら完全にアル中じゃない。 そんなこんなで今は禁煙治療に保険が適応されます。国と隣人を愛する人は病院に行ってみるのも良いでしょう。

と、ここまで言っておいてなんですが、別に僕は禁煙を押し付けるつもりなんてないです。 吸いたい人は吸えばいい。だって単なる嗜好品なんだもの。 別に僕の隣で吸おうと、休憩時間とかだったらちょっとくらい我慢してあげてもいい。きっと中毒者にとってタバコが吸えないことは相当につらいことだろうから。苦しむ隣人を救うためなら、僕は喜んで身を削ろう。 でもできればそれがアルコールだったらどうなのかと、覚せい剤だったらどうなのかと考えて欲しい。例えば会議の最中に、例えば人が多くいる場所でそれをヤルのはどうなのかと。タバコって結局劣化麻薬だからね。

話が変わるけど、タバコやお酒が大好き、でもニコチン中毒やアルコール中毒じゃないって人は割といる。 中毒症状が好きなんじゃなくて、味だとか香りだとか外観だとかが好きって人。 収集癖のある人なんかがそうっぽい。 そもそもタバコって常習して楽しむものじゃなくてたまーに、祭事とかちょっと気合入れたいときとかに吸うものだよね。

よーするにみんなタバコマニアになればいいんだよ! っていう良く分からない結論。

よく分かるお話は下記リンクにありますから、今までの話なんかどーでもいいんでこっちのほうをまじめに読んでください。特に2個目なんかは普通に読み物として面白いんでオススメ。

社会法人日本呼吸器学会 禁煙のすすめ

メディアリテラシーの練習問題;室井尚の奇妙な反・嫌煙運動プロパガンダ論

タグ:タバコ
posted by Rion778 at 17:33 | 岐阜 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2005年12月27日

頭がいい人

どういう人が「頭がいい」のか、「頭がいい」とは一体どういうことなのかという疑問は、よくよく考えてみると簡単そうでなかなか答えのでないものである。

私が思うに、というか多くの人はそう思っているだろうが、計算が早いだとか、記憶力が優れている、記憶量が莫大であるということは「頭がいい」かどうかとはほとんど関係がない。 まず計算のスピードについてだが、これはパターンをいくつ、そしてどれだけ大きな単位で暗記しているかに依存している。なぜなら、人間の頭のクロック数は活動電位の伝達スピードに依存するであろうし、それはおそらく訓練などによって向上しうるものではないと予想するからだ。つまり計算能力とはすなわち記憶能力である。 そして記憶能力であるが、これが優れているということはつまり忘却という作業をなるべく抑えられるということであろう。だが、忘却が正常にできない場合、人間が外界を認識する上で重要な概念の形成に支障をきたす。 例えばイディオ・サバン(白痴の天才)と呼ばれる人々は、超人的な計算能力や記憶能力を有しながら自閉症であったり、知能の発達が大きく遅れている。これはすなわち忘却というプロセスへの障害が超人的な記憶能力をもたらし、一方で概念形成を阻害した結果と見ることができよう。ただ、サバン症候群についてはいまだ未知な部分が多く、これは私の推論でしかないことを付言しておかなければならない。 それでも記憶能力は平均以上程度あったほうが良いような気もするが、記憶力がしっかりしていると記憶同士の結びつきが適切になりすぎる。記憶同士の結びつきはおそらくいい加減であるほうが良い。これについては以下で述べる創造性の話に入ってしまうのだが、ここでは記憶同士の関連性がいい加減であると独創的な記憶の想起ができると予想される、ということだけを述べておく。

それでは何をもって「頭がいい」とするのかという問題だが、私は創造力に秀でていることではないかと考える。柔軟性、と言い換えることもできようか。 では創造力とは何かということだが、これは決して誰も考えられないようなことを突然思いつく特殊能力のことではない。 あえて反論を恐れずに言うならば、「何かを突然思いつく」などということは起こりえない。実際は過去を思い出しているにすぎない。 要はその思い出し方が問題なのである。 つまり、いわゆる「思い出す」という行為が記憶をそのままの形で引っ張り出してきているのに対し、「考察」という行為は記憶を様々な細かいパーツとして寄せ集めこねくり回して作品を作り上げている状態なのである。 そしてパーツが細かければ細かいほど、多様であれば多様であるほど、他人からの視点ではそれがどう組み上げられたのか想像するのが困難な、すなわち独創性にあふれた作品ができあがる。そして、組み上げ方が理解できなくても、それの訴えるメッセージは多くの人に伝わるような芸術作品を組み上げられる人間を人は評価するのである。

なぜパーツが「記憶」でなければならないのか、という疑問をもたれるかもしれない。 だが私は「記憶」によらない創造活動の例を、一つとして挙げることができないのである。 われわれは感情表現のような一見本能的な行動すら、学習によって適切な方法を学んでいるのだから。

ちなみに私の考えでいけば芸術家こそが「頭がいい」ということになるが、この予測はおそらく正しい。 私が知る限りにおいて、あらゆる分野で一流と呼ばれるような人々の活動は実にクリエイティブでまさに芸術家のそれであるからだ。

posted by Rion778 at 01:33 | 岐阜 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
2005年12月14日

判定問題

任意のプログラムについて、これが停止するかどうかを判定する有限のプログラムは存在しない。

というのがいわゆる停止問題とか判定問題とか言われるやつなんですが、ある時からふとこの問題はどうやって証明されているのだろうということが無性に気になり出しまして、色々と調べてみたのですよ。 例えばウィキペディア。 チューリングマシンがどーとかこーとか。 言わんとすることは何となく分かるのだけど、まーでも何となくしか分からない。 数学的な手法を用いて証明している人もいるのだけど、そうするとよけい分からない。 数学ってのはやっぱ慣れてないと理解が難しい。

そういや最近の教科書は授業時間削減のあおりだかなんかで練習問題が減ってるらしいんだけど、それは止めた方がいいと思う。 数学は理論を学ぶイメージが強いけど、結局あれはセンスが重要なんであって、センスを磨くには公式を暗記するだけじゃなく、それを何度も反復させないと絶対無理。凡人には。 数学だとか物理学だとかの世界で「若い天才」が出るのは数学という分野でいかにセンスが重要かということを非常に良く表している。

塾に行けば、家庭教師を付ければ成績が上がる(はず)という神話にはこうした部分に関与したレトリックがあるのではないだろうか。 塾や家庭教師の教え方が上手いから成績が上がるのではなく、単に反復回数が増加するから成績が増加するのだ、と思う。 私は人相手に学問を習う事ほど無駄なことはないと思っている。人が人に何かを教えれば教師と生徒の合計人数分の時間を必要とする。しかも何度も何度も。 書籍であればそんなことはない。執筆に一度時間をさけば、一人分の時間で一人分の知識を得られる。実に合理的。

でも私を含め多くの人は全て合理性に基づいてロジカルな行動が取れるほど人間が出来ているわけではありませんから、誰かにプチ強制的に教示されにゃーならんわけです。 「僕はやる気が欲しいから○○に行くんだ」なんて塾のCMが昔ありましたが、結局対人教育の根源はこのワンフレーズに集約されるのではないかと思う今日この頃。

って、塾は行ったこと無いし学校も相当サボってた僕が言う事じゃないかもしれないですけど。

posted by Rion778 at 02:07 | 岐阜 | Comment(1) | TrackBack(0) | 考え事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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